Drop into 花鳥画

野鳥好きのライターが花鳥画についてイチから探索する日々を綴ります

『荘子』のこと

中国の山水画とは、儒教による統治を実践する役人が、一方で憧れた自由の境地の象徴だった。宮崎法子さんの『花鳥・山水画を読み解く』を読んで一番なるほどと思ったのは、鳥の話ではなく、実はこれだった。

 

山水画に描かれる自由の境地とは、社会における役割から逃れ、人知を超えた自然に身をゆだねることを説く老荘思想的な世界。山水画につきものの漁師というキャラクターも、『荘子』の中にしっかりとした出自を持つ記号だ(土地に縛られた農民は、山水画を構成するキャストとしてはお呼びでないのだそうだ)。

 

荘子』は、数年前に読んで私が激しく共感した古典の一つ。今から約2300年前に成立したとされる思想書で、世間の常識を疑い、凝り固まった思考を解きほぐし、有に恋々とせず無に遊べと説くたとえ話の数々は、滅法おもしろい上に現代に通じる含蓄に富みすぎている。

 

中でも私が一番好きなのは、「無用の用」、つまり役に立たないことが大いに役に立つということを説いた、人間世篇の大工と弟子の話だ。

 

あるとき大工と弟子が旅していると、巨大なクヌギの木があり、その下の多くの人が集まっている。弟子は感動して見上げるも、師匠の大工はまったく関心を払わずスタスタ行ってしまう。何故木を見ないのかと問う弟子に、大工は「あれは役立たずの木だ」と言う。あの木で舟を造れば沈むし、建具にすれば脂(やに)が流れ出す。柱にすれば虫が入る。どうしようもない木なんだと。旅から帰ると、大工の夢にクヌギが現れた。そしてこう言う。

 

「お前はいったい、俺を何と比べているんだい。お前の役に立つ、きれいな建材になる木と比べているんだろうなぁ。柤(こぼけ)や梨、蜜柑や柚、そういう実のなる木は、実ができるとむしり取られ、もぎ取られるために、大枝は折られ、小枝は引きちぎられる。これは、人の役に立つことで却って自分の身を苦しめているわけだろう。つまり寿命を全うできずに若死にするわけさ。進んで世俗に打ちのめされている。世の中って、そういうものだろう」

「そこで俺は、長いこと役立たずになることを願ってきた。その結果、大木になれたのだ。無用であることが、大木になるには有用だってことだ。もし俺が、役に立つ木だったらこんなに大きくはなれなかっただろうさ」

玄侑宗久『NHK100分de名著ブックス 荘子』P76、2016年、NHK出版)

 

これってまさに、真面目であることをいいように利用されて長時間労働を強いられる日本の労働環境と、それに対するアンチテーゼそのものではないか。

 

理不尽な長時間労働の果てに自殺に追い込まれてしまったという人のニュースが後を絶たない。亡くなった人はほとんどがものすごく真面目な人だ。仲間の、上司の、会社の、お客さんの役に立とうと思って一生懸命仕事をした。その挙句に、実をもぎ取られて枝を引きちぎられ、「寿命を全うてきずに若死」にしてしまったのだ。

 

私はここを読んだとき、心の中で机をバンバン叩いた。いまこそ『荘子』は読まれるべき本だと強く思った。

 

荘子』は、効率よく仕事をすることが本当にあなたにとって幸せかと問う。自分の意思というものにこだわると心に淀みが生じないかと問う。儒教で重視される目標や計画は、しょせん思い込みと予断に過ぎないと喝破する。そんな『荘子』の思想を、儒教を掲げて国を治める役人たちも、実は絵画に託して心の避難場所としていた。

 

社会の秩序と個人の自由。やはり人は、昔からそのせめぎあいの中で生きてきた。秩序を守る側の人だって、そこに奉仕して120%ハッピーなわけではなく、ときにバーチャルな隠逸の世界に心を遊ばせることが必要だった。そのことが分かったことが、何故かとてもうれしかったのだ。