Drop into 花鳥画

野鳥好きのライターが花鳥画についてイチから探索する日々を綴ります

『花鳥・山水画を読み解く 中国絵画の意味』

花鳥画についてはとにかく本が少ない。思い出してはAmazonで検索してみるが、新しい本もなかなか刊行されていない模様だ。そんな折、ちくま学芸文庫から2018年1月に出た『花鳥・山水画を読み解く 中国絵画の意味』(宮崎法子)という本がヒットした。書店で早速ゲット。

 

中国の山水画花鳥画に描かれている「画題」に着目し、その意味を丁寧に解きほぐしていく研究書にして入門書。嗚呼、こういう本が読みたかった、とうれしくなる本だった。

 

著者の宮崎さんが前置きするように、私たちはなんとなく、「芸術は社会と相容れない傾向をもつ個人(芸術家)の孤独の闘いの中で生み出され」るものだと考えている。例えばゴッホの絵がそうであったように。しかし、そのような芸術観は西洋近代の産物。個人の魂の表現ではなく、社会が求めるものの表現が芸術だった時代や地域だってもちろんあった。

 

中国の山水画は、宋の時代に特に発展したという。背景にあるのは、科挙による官吏登用制度の本格化。血筋や家柄に関係なく、試験に受かりさえすれば誰でも(男子のみではあるが)役人になれるというこの制度は、生まれによって身分が保証される貴族の没落と、試験に出題される「儒教」の一般市民への浸透という結果をもたらした。そして、試験に受かった役人(士大夫)たちが愛でたのが、水墨山水画だったという。

 

なぜ山水画なのか。

 

山水画に描かれているのは、峰がそびえる深山幽谷、岩陰の東屋、やってくる旅人、水に船を浮かべる漁師……。その光景が象徴するのはずばり、「隠棲への憧れ」なのだという。つまり、試験に受かってあくせく働く役人たちが、「ああ、本当は引退して俗世を離れ、こんな世界に棲みたいなぁ」と焦がれた世界がこれなのだそうだ。

 

自分は実務の世界に生きているが、こうした深山幽谷に憧れることができる美意識も持っているのだという自負。これこそが、一般人と士大夫を分ける差異であり、士大夫だけが理解できる「雅」なのだそうだ。

 

宮崎さんは、このいささか屈折した文人の心理を、「中国の知識人における儒教老荘思想の同居」という観点から解き明かす。カギとなるのは、漁師と旅人というモチーフ。特に漁師は、『楚辞』や『荘子』といった古典文学において「現実世界に拘泥せず、なにものにもとらわれない自由な境遇を象徴する存在」として描かれていて、人々もそのように記憶し続けてきた。

 

中国の知識人にとって儒教老荘思想は、一人のなかで表裏一体の関係をなしていた。官僚として天下の政(まつりごと)に参加する儒教的な志を、現実の官界で実現することはほぼ不可能であったろう。そこにいつまでも恋々とすることは、彼らの理想とはほど遠い。それを相対化し、常に隠逸への思いを胸中に潜ませるというスタンスは、現実世界と妥協しつつ俗に陥らないための、自身を納得させ、正当化するために必要な精神の回路であったと思われる。(中略)

山水画は、そのような彼らにとって現実からのつかの間の遊離の場であり、理想世界に心を遊ばせる場であり、憧憬(しょうけい)の世界であった。そこには、儒教的な秩序の根幹に組み込まれた、生産者としての農民の居場所はなかった。山水世界は、漁民や猟師、樵たち、そして隠者、逸民の世界であった。山水画に漁師が好んで描かれたのは、単に川や湖には漁師がつきものだからという理由だけではないだろう。彼らは、山水世界に最もふさわしい住人として選ばれた存在であった。『楚辞』や『荘子』という古典のなかにしっかりした「身元」をもった漁師たちは、本人たちの意思とは関係なく、士人たち知識人たちによって隠逸を象徴する存在とみなされ、時代を超えて山水画のなかに描き継がれたのである。(P76-77)

 

儒教老荘思想は表裏一体。この指摘はおもしろいと思った。中国には、社会における道徳を説く儒教と、個人の魂の自由を謳う老荘思想の両方があっておもしろいなと思っていたが、そういうことだったのか。

 

そういう、ゼロイチでは割り切れない人間の本質的な複雑さに関わる背景を知ると、夢か現か判然としないモノクローム山水画というものを見る目も、俄然変わってくるというものだ。

 

山水画における漁師が単なる現実の点景ではなく周到に選ばれたモチーフであったように、中国の花鳥画に描かれる鳥たちも、さまざまな意味を担う存在だった。

 

例えば、オシドリは古代より日本と同じように夫婦円満の象徴であり、宋代によく描かれたサギは儒教的な徳、あるいは高級官僚そのもの(サギは文官の制服につけられる位ごとのシンボルの一つだった)を表すことから、科挙合格の願いを託す象徴となった。カササギは「喜」を表し、ウズラは、それを表す「鵪」と「安」が同音(an)であることから安らかさの象徴だった。逆に、中国では不吉な鳥とされたフクロウやミミズクは花鳥画では決して描かれなかったという。「優れた自然観察によって描かれた花鳥画作品において、画家は目に映るものすべてを描いていたわけではないのである」。なるほどなぁ。

 

中でも一番興味深かったのは、オシドリの描かれ方の変遷。夫婦円満を表すオシドリは、恋愛、結婚、子孫繁栄を象徴する蓮の花と一緒によく描かれた。「蓮池水禽図」という画題がそれだが、この「蓮池水禽図」、宋代よりも前の時代には雄の美しい飾り羽が描かれているが、宋代以後の絵では、その姿は地味なものに変わっているという。その理由は、蓮の花が咲く時期に、飾り羽をもったオシドリはいないということへの気づき。

 

いずれにせよ、夏に咲く蓮の花の上に、冬の飾り羽姿の雄の鴛鴦がいる図は、自然界ではありえない。しかし、工芸品などの文様において、鴛鴦であることを表すために、最も美しく特徴的な冬の雄の姿で表されていることも多い。しかし、宋代の花鳥画においては画家も鑑賞者も、やはり写実を重んじる傾向が強かったと思われ、少なくとも現存の宋代の蓮池水禽図に冬の飾り羽をもった鴛鴦を見ることはできない。(P215)

 

おめでたい吉祥の意味を何より重視しつつ、写実とのせめぎあいもあったんだ。おもしろいなぁ。

 

“怖い絵”を流行らせたドイツ文学者の中野京子さんがどこかで、「日本の美術教育は見たままを感じなさいと教えるが、自分はそれに不満だ。その絵が描かれた背景を知ってこそわかる絵というものが確実にある」ということを言っていた。中国の山水画花鳥画もまさにそれに当てはまる。

 

では、日本の花鳥画は? 知りたいのはそこだ。

 

*『花鳥・山水画を読み解く 中国絵画の意味』は2003年に角川叢書から刊行され、2018年にちくま学芸文庫として再販されている。

 

花鳥・山水画を読み解く (ちくま学芸文庫)

花鳥・山水画を読み解く (ちくま学芸文庫)